1953年(昭和28)、和歌山県の中部山間地帯が壊滅的な打撃を受ける水害がありました。その後、拡大造林政策などが進められて1975年ごろまでの間に紀州の山から自然林はほぼ消滅しました。その間、私たちは「山の自然は川や海とも密接に関連しており、自然林伐採とスギやヒノキの人工林拡大は、やがて紀伊半島全体の自然破壊につながる」と訴え続けてきました。ところが、私たち自然研究仲間の訴えは一顧だにされず、自然破壊は進む一方で、私たちはむしろ時代に逆らう異端者であったようです。
それから約30年、今になって「スギ、ヒノキの過度な植林は、いかに自然を荒廃させるものであるか」を疑う余地はありません。川の水が激減しました。野鳥の姿もめっきり減りました。害虫、獣害の出現により山間部の山里では作物の収穫が困難になりました。山が乾燥して気候の変化をもたらしています。過疎問題も深刻です。いずれも1955年(昭和30)からの高度経済政策に起因していることばかりです。
かつての熊野の森は、「紀伊半島南端、年雨量4,000mm」の温暖多雨の気象条件に支えられて発達したタブノキ、イチイガシで代表される深い照葉樹林で覆われていました。その森は、現在の学会の常識では理解できないような自然でした。生育する植物も、それらの動植物を取り巻く分解者(微生物)たちも無限の神秘を秘めて生きていました。そこには音、色、形、香などの織り成す高次元の芸術がありました。それが昇華して自然を畏れ敬う宗教が生まれ、生きる根源を思案する哲学が芽生えました。これを抜きにしては熊野信仰の根源は考えられません。平安の人々が、苦難の道を歩いて熊野の地を訪ねたのと同様に、現在に生きる者も、この熊野の森から「生きる指針を模索すべきであった」と考えられます。
この貴重な自然をなくしてしまった現在、今後どのように対処すればいいものか。もはや対策は一切立たないと思います。それでも、私たちは、何十年、いや何百年かかろうともすべての生き物がかかわりあえる本来の自然を取り戻すべき道を歩かねばなりません。これを進めるのが「いちいがしの会」です。着実な一歩を重ねようではありませんか。
(1998年3月14日、第一回いちいがしの会総会で)